2015-04-06

第2回朝活(夜活) 「授業を斬ってください」ということばに込められたもの,受け止めるもの

第2回 朝活(夜活)のまとめ

こんにちは,ゴトウです。

2015年4月4日,21:30〜23:00,これ社の第2回朝活もとい夜活が行われました。

参加者は,前回と同じく南浦さん,柴田さん,井上さん,後藤です。
今回のテーマは,

「授業を斬ってください」という言葉に込められたもの,受け止めるもの

です。

議論の背景


上記をテーマにしたわけは…。

私たちは,(授業)理論と実践の関係と,大学研究者と現場教師の関係について議論してきました。私たちは素朴に,社会や子ども,学術の動向→教育課題→課題に応える授業理論→授業実践という正規の(?)ルートがある,あるいはそれを目指しがちです。このルートの過程を振り返ってみると,「大学研究者に理論を見てもらう」とか「理論の応用としての実践」という関係や役割分担なようなものが自然と出来上がっている。

それが良いか悪いかは別に,なんでだろうということを,現場の教師である私は/大学教員である私はそのルートの中で何を求めているのか,何を提供しようとしているのか,そこに需要と供給の一致とズレはないか,を議論しているうちに…

このルートの中でしばしば交わされる言葉-「私の授業を斬ってください」-が気になってきたわけです。以下,前回の南浦さんのまとめの引用です。

「そういう話をしながら次第に4人の中で出てきたのは,「私の授業を斬ってください」とは何だろうか,ということです。実践当事者と実践非当事者のアドバイザーが関わるとき,教科教育の関わりでは往々に,この「斬ってください」という言葉が飛び交います(あるいは「叩いてください」)。しかし,「斬る」とは何でしょうか。」

議論の内容


「斬る」-ざっと考えただけで,意味がたくさんありそうです。そこで議論は,まずは自分たちの「斬る体験」あるいは「斬られ体験」をブレーンストーミングするところから始めました。

「斬る」の多義性


こんな斬る体験,斬られ体験が出てきました。

  • 授業実践について,同僚や同じ研究会の内々のメンバーで意見を「言い合う」場面と,それを踏まえて学外や他の研究会など,公な場で発表する場面の2つが大きくはあるような気がする。前者は,「本番」に備えて議論を「くぐらす」とか,(同僚間で)総力を「結集する」といったニュアンスも。後者は,先日の話にも出てきた,自分(たち)では気づかない点を指摘してもらう,お墨付きをもらうなどといったニュアンスで「斬られる」。

  • 大学の先生に「斬ってもらった」経験から…斬る目的には,授業の仮説を高めていく,より良いものにしていく,指導要領との関係が分かる,大学の研究者と現場教師とで理論と問題状況を共有する…などがありそう。

  • 研究・実践を進めていく上では,自他の立場や位置づけ,あるいは自他の研究・実践上キーとなる概念や用語を,他の研究や概念・用語と「区別する」,「切り分ける」っていう意味で使っているかも。要は,交通整理。

たぶん,これをお読みの方にはもっと色んな体験や用法があるのではないでしょうか。

でもメンバーに共有されていたと思われる点は,斬った,斬られた「あと」にあるものを重要視していることです。ただ斬られるだけでは痛いだけ。斬られることで,整理や位置づけ,改善の視点やお墨付き…が得られる。

仮にこういう「見返り」のある「斬る」が「よい」斬るだとしたら,それが成立する要件は何なのでしょう?結果がよければ,どんな「斬られ方」をしても良い?斬る目的や,斬ることによって得られる効果はさておき,斬るって何だ??どういう行為なの?

「斬る」「斬られる」に潜むもの


議論はより掘り下げたものに。ちょっと雑多になってしまいますが,以下に重要な論点を孕んでいそうな,メンバーのコメントを挙げます。

  • 例えば,現場教師と大学教員との関係で言うと,同じ「斬る」でも,徒弟的な指導の関係の中でと,割と研究者の理論をある程度相対化して意見を言える関係の中でと,よりフラットで協働的な関係の中でと…などでは,どこがどう同じ?違う??

  • でも,フラットで対等な関係の中で,「斬る」っていう言い方は馴染むの?例えば僕たちは今,コレシャで斬り合っているの?議論する=斬り合う?

  • 斬る,斬られるにメリットがあるとはいえ,「痛み」が伴いそう。だから,場合によっては斬り返してやろう,みたいな。例えば,そんなに露骨ではないけど,「本論に対して〜という点からの指摘・批判もあろうが」などと予防線(という名の斬り返し)を張っておくとか。何か,構えたような感じになる。

  • 確かに,自分(たち)では気づかなかった点を指摘されるのは良いこともあるが,極端に「難しい話」だと「はぁ,そうですか,スゴイ」と思考停止してしまう。斬られ損ですね(笑)。アイツ,斬られたのに気づいてないゾ!とかも。
ん?私たちの中で,「斬る」が揺らいできました。斬るは単に意味が多様なだけでなく,ネガティブなニュアンスもあり,斬る側,斬られる側によっては斬れない(=斬るが成立しない)ときもある。
では,上の方に挙げた「見返りのある斬る」を成立させるには?

斬る側,斬られる側の一方向的な関係ではなくて…例えば研究授業のようなときにAさんの指導案を斬るのだとしたら,斬り役のB,C,D,Eさん同士も斬り合うのはどうか。なんか健全!!(笑)
でも,発言力の大きい先生がズンと構えていたら?うーむ。。。

「斬る」「斬られる」を超えて


例えば,「これどうなんでしょうね,掘り下げてみたらもっと面白くなりそう,一緒に考えていきましょう」…といったもの(言い方の問題と言われてしまうかも知れませんが)はどうなるのか。斬り役を当てられたとき,時々このように言いたくなったり,実際言ったりしないでしょうか。この言い方は一見,明確に方向性を示していないし,理論でもないので,「斬れ味が悪い」とされそうなんですけれど…
斬らなければ,良い理論・実践は生まれないのでしょうか。

今回,議論は広がるだけ広がって収束しませんでしたが,「斬る」という言葉は一見汎用性の高い言葉であるけれども,それでも言い表せられない関係や「斬る」(ことによる見返り)が成立しない状況もある。私たちはそんなことを再確認したような気がします。

最後に,おぼろげながら見えてきた論点を挙げておきたいと思います。

  • 位置付ける,改善点を指摘する…ではなく,なぜ「斬る」なのか?痛みが伴いそうなイメージがつきまとう言葉を幅広く使うのでしょうか?

  • 斬るというと,誰が誰をということを思いがちだが,結局,(一方向的に)理論で実践をっていう話なのかな??逆はない??

  • 斬る,斬られるの関係は,社会系教科に固有の,もしくは特徴的な文化(?)なのか?確かに,社会科には◯◯主義社会科,社会◯◯科,◯◯学習など,教科の本質や目的に関する議論が盛んで,それらの主義主張から樹形図的に授業理論も派生してきている形。理論で実践をという形ができやすい??

2015-03-05

第1回コレシャ朝活 実践者と研究者の距離と関係~まとめ

朝活第1回 まとめ


2015年3月1日,これからの社会科研究会の初めての「朝活」が行われました。

今回から,「募集」を募り,google+のハングアウト機能を用いて,遠隔的な対面式ディスカッションを行っています。

朝7時,若干のもたつきがありましたが無事画面越しに全員集合し,始まりました。

参加者は,井上昌善さん,後藤賢次郎さん,柴田康弘さん,そして南浦です。

今回のテーマは,「社会科の実践者は,研究者とどのような距離感で関わり,何を得ることを求めているのか」でした。


テーマの背景

「実践者=研究者」という前提


このテーマは,これまでの「コレシャ」の話題の中に散見された「実践をどう語るか」という話から来ています。
とくに,「研究は『ポイント』をまとめ、聞くことなのか?」の回では,いろいろな人からご意見をいただきました。
いわく,


  • 私は大学の研究者だが,単につらつらと語るだけのことを現場は求めていない。
  • 現場の教員,とくに教科の授業に熱を入れている人であればあるほどは,大学の研究者に「斬ってもらう」ことを求めている。

などなど。

その中で,私たちも,それから意見を出していただいた方も整理できていなかったことに気付きました,それが以下の問題です。

私たちがその回で言及していたのは,「実践者が実践を研究としていかに語るか」の話をしていたのですが,読み手の人の中には,「指導助言などのアドバイザーとして,実践者にどう語るか」として受け止めている人もいました。

実際,私たち自身が研修の話を混ぜて話すなど,「語る主体は誰か」を意識できていなかったことでもありました。

これまで,社会科教育では以下のような文脈が確かにありました。それは,「実践者=研究者」という視点でしょうか。

社会科教育の研究に関わっている人は誰であれ,「実践もできるし研究もできる」という「実践者=研究者」であることを目指します。その背景には,もともと,あるいは今も教員である/あった人が多いということ,社会科教育の研究が基本的に「授業」に視点が当たり,それをよりよくしていくことの研究であったことがあるのかもしれません。そのため,他の分野の学問のように,研究者が「researcher」に特化せず,授業者としてのプロであることが同時に求められていたことがあるため,研究者は同時に実践者である,という感覚が他の学問に比べて多くあったように思います。それは,ある意味で研究が常に実践と密接に関わっていく土壌を作ったといえます。



「実践者=研究者」の視点が引き起こす問題

しかし,「実践者=研究者」という視点は同時に,ある種の弊害ももたらします。
それは,実際には指導助言の場で,学校現場の教員の授業に,大学の教科教育研究者が指導助言者として関わることを典型例としてあげられるように,「実践の当事者としての教員」と「実践の非当事者としてのアドバイザー」とが「実践者=研究者」という同一人物の中に併在しているのでなく,「実践者≠研究者」として現れる場面は間違いなく存在します。

その時,「実践の当事者としての教員」と「実践の非当事者としてのアドバイザー」は,どのような関わりを求めあい,そして何をやりとりすることを考えているのでしょうか。
意外に,これについてはあまり議論をされたことがありません。

議論がないまま,「実践の当事者としての教員」と「実践の非当事者としてのアドバイザー」が互いに自分たちを「実践者でもあり研究者でもある」とのみ捉えていれば,そこにはある種の軋轢や関係の歪みも生まれかねません。

とくに,「実践の非当事者としてのアドバイザー」の側がそれを理解していなければ,時にそれは,「アドバイザーの方が研究的視点も実践的力量も優れている」かのような関係をつくりだし,両者の間に権力関係を打ち出してしまうこともあります。

そこで,今回の朝活では,朝7時という時間には驚きの話題ですが,



  • 学校現場の教員と大学の教員はどのような距離感で関係を持とうとしているのか。
  • 学校現場の教員は,大学の教員から何を得ようとしているのか,大学の教員は何を与えようとしているのか。


を話し合いました。


議論の内容

今回は,中学校の社会科の教員が2名,大学の社会科教育の教員養成に携わる教員が2名,でのディスカッションでした。



  • 学校現場で同僚同士で授業について話していると,どうしても子どもたちの様子に根ざした話,子どもの反応がどうだったか,という話に特化されることが多くなり,それ以外の視点が持ちにくい。例えば,今自分が教えている歴史や地理の内容が,正当なものなのかどうかが分からなくなってしまう。そこを見失ってしまうので,アドバイスをもらえるのはありがたい。


という意見。特に,社会科教育など,教える「内容」の正当性を考えるという視点での関わりを求めるというものです。
それから,もう少しざっくりとした意見に,



  • どこかで自分たちのやっている授業を,大学の先生に見てもらうことで「権威づけてほしい」という気持ちはあるような気がする。「良いって言ってもらいたい」「お墨付きをもらいたい」というような感覚もあるような気がする。


という意見もありました。なるほどなるほど……と4人でうなずきながら。ただ,「権威づけてほしい」ということの後に「良いっていってもらいたい」とあるように,やはり「正当性を担保してほしい」ということはあるのかもしれません。ここには一つ「アドバイザーとしての役割」があるような気がします。

もう一つ,「関わるという点で言うと,授業開発からいろいろ関わってもらえたら」という言葉もありました。

こうしたことに対して,今度は若手大学教員の立場から


  • 「教える歴史や地理の内容が正当なものかどうか」という視点というのは,実は社会科教育の研究である自分は,とても難しいところでもある。内容の深さについては,それは歴史や地理の研究者のほうが専門的で,僕の場合…おそらく社会科の研究者は特に,素人の域を出ていないものでもある。だから,内容の深さを求められていくと,実はどうなんだろう,という部分はある。


という言葉も出ました。例えば近代史の授業を作っている上で,その教材から見えるものを例えば「知識の構造」のように作っていったとき,その「知識」の深さ広さは,歴史の専門家でなはい場合,何とも言えない経験的なもの,趣味的なものになります。


さらなる問いへ

こうした中で,4人で話し合っている中で出てきたのが,「社会の動向→子どもたちに必要な力→具体的な実践」という研究の流れを作ることを現場の教員は欲しているけれど,それは一概に作れるものではないのではないか――ということです。大学の教員側としては,具体的に,目の前の実践当事者の持つ現場の子どもたちの様子が分からないために,何を内容として正当なものとするのかは判断に難しくなる場合もあります。必ずしも,その流れをつくることが,学校の先生にとって重要なことかもわからず,葛藤します。

もう一つ出てきたのが,実践当事者の人が研究をするときにある「理論を見てほしい」というニーズです。ここでいう「理論」とは,上の「社会の動向→子どもたちに必要な力→具体的な実践」という研究の流れにあたることでしょうか。しかし,往々にして大学教員の側から見ると,実践当事者の方の研究の報告書や論文で,実践の前にある「理論編」のような部分があまりにも大きすぎ,取ってつけたような感があり,もっと素直に実際の授業の話をしてくれたらいいのにな,と思うことは多々あります。

このあたりには,「学校教育における研究」というものがあまりにも「理論の応用としての実践」というスタイルで語られることの弊害にも感じます。

そういう話をしながら次第に4人の中で出てきたのは,「私の授業を斬ってください」とは何だろうか,ということです。
実践当事者と実践非当事者のアドバイザーが関わるとき,教科教育の関わりでは往々に,この「斬ってください」という言葉が飛び交います(あるいは「叩いてください」)。しかし,「斬る」とは何でしょうか。

「斬る」という言葉。しかし,「斬られる側」は何を斬ってもらおうと考えているのか,「斬る側」は何を斬るのか。往々にしてその内容は異なってる,ずれているようにも思います。そのとき,実践当事者は,二度とその大学の教員に関わりたいとは思わなくなります。

ときに,たまたま「斬ってほしいもの」と「斬るもの」が幸福にも一致することがあります。しかし,その関係で結ばれていても,公共空間で浮き上がってしまう恋人のように周りから見たら妙なものに見えてしまう――2人は楽しんでいても,周囲の社会から見たら恐ろしく外れている2人の関係であることもあります。
いや,そもそも「斬る」という言葉そのものに,ある種の権威作用が働いているとも言えます。

このあたりでちょうど朝活の時間が終わってしまいました。

そこで,次回の朝活では,「『斬る』ということばに込められたものは何か」を考えていきます。

参加したい方,ぜひ,ご連絡ください。

*******************
そういうわけで,告知です。




●Co-Re-sha:これからの社会科研究会 第2回朝活(都合により夜活)
「授業を斬ってください」ということばに込められたもの,受け止めるもの

日にち 2015年4月4日(土)
時間 21:30~23:00

google+のハングアウト機能を使ってディスカッションをします。

ディスカッション参加希望者は,googleのアカウントを取得したうえで,coreshakaiあっとまーくgmail.com(あっとまーくを@に変えてください)までご連絡ください。定員の関係で締め切らせていただくことがあります。

google+のハングアウトオンエアを使って,議論の様子はYOUTUBEで視聴可能にする予定です。(URLは後程ご連絡します)

2015-02-18

「第1回 コレシャ:朝活」のお知らせ

みなさま,長いこと休止状態で大変申し訳ありませんでした。ディスカッションをしていた主要メンバーの一人が,おめでたいことに産休に入り,子育て真っ最中。そのまま組織の脆弱ゆえ,ディスカッションが行われず休止状態になっておりました。

このままでは,せっかく立ち上げたコレシャですが,これからを考えるまもなく,霧散しかねない…!
ということで,コレシャのシステムを少し変え,定期的に「朝活」と称して,お休みの日の朝に「朝活ディスカッション」をgoogle+機能を用いてすることになりました。

多様なメンバーの参加可能性を考えると,時間はお休みの日の「朝活」しかない! ということで,おゆるしください。

◎朝活時間

日にち:2015年3月1日
時間 :午前7:00〜8:30ごろまで
メンバー 先着3名
(※初めての試みなので,メンバーを少なくさせてください。うまくいけば広げていきます)

◎朝活テーマ
・ひとまず,これまでの議論の続きということで,
・社会科の実践者は,研究者とどのような距離感で関わりたいか。というテーマで話し合いを行います。

◎参加のしかた。

・参加希望の旨を,coreshakai@gmail.comまでお送りください。
・ディスカッションは,google+を用いて行います。各自,googleアカウント(Gmailアドレスです)をお取りいただき,そのアドレスをご連絡ください。ディスカッションのグループにご招待します。

お待ちしております。

2015-01-16

これまでのまとめ

こんにちは,ゴトウです。

夏以降,メンバー共々ドタバタしておりまして,更新が滞っておりました。
お詫び申し上げます。

今日は,間が空いてしまったこともありますので,これまで僕たちが議論してきたことを簡単に振り返りたいと思います。言ってみれば,「これしゃ」の「これまで」です(笑)。興味あるけど,過去の投稿を全部読むの大変だなぁと思っていた方,ぜひご覧ください!!

「これしゃ」って,なぁに?


「これからの社会科研究会」です。目的は,


「「社会を学ぶ」「社会を考える」「社会に生きる」ための教育や授業など、社会を学ぶ/教える「実践」を考えていく」


その際,キーワードになるのが


「ともに『これから』を考える」「ふりかえりながら『これから』を考える」「社会を学ぶ教育の『これから』を考える」

です。

そうか,だから「これしゃ」って言うんだね!
僕たちは,文献を読んだり,これまでの教育研究の経験を掘り起こしたりしながら,ウェブ上で議論してきたことをブログで綴ってきた,というわけです。

何を議論してきたの?


もう少し目的を詳しく述べると,次のようになります。

1:「社会」の教育の実践をよりよいものにしていくこと。
2:1を希求する教師が自分の抱える現場の状況の改善や実践の向上に資するものになること。
3:1や2のための「研究のしかた」「発信のしかた」といった「研究のありかた」を考えていくこと。

このうち,僕たちが特に関心を持って議論してきたのが,「研究のありかた」と「実践」(理論と実践の溝)についてでした。

「実践の記述の仕方」にはどのようなものがあるのか


社会科教育の「研究」と言ったとき,名人しかできない授業も新卒の先生にもできるようにと,原理や理論など一般化したものを抽出するというイメージがあるかも知れません。

そうした研究の中での授業実践(計画も含め)の示し方は,原理や理論などが端的に表れた,僕なりに言えば「キレイな教授書」となります。

なるほど,優れた授業実践の背後にある原理や理論はこうなのか,それを授業に落とすとこうなるのか,僕にもあなたにもできそう,汎用性あるじゃん…と。

でも,その「キレイな教授書」だと「語られないこと」も出てきそうです。

・なんでこの単元でこんなに時間を割くことが可能なの? 他の単元はどうなったの?
・他のクラスの同僚教師とどう調和をとっているの? あなたは学校の中でどういうポジションなの?
・この学校はどういう学校なの? 公立学校でどうしたらこんなことできるの?

こうした問題意識を持ちながら,

・細川英雄・三代純平編(2014)『実践研究は何をめざすか:日本語教育における実践研究の意味と可能性』ココ出版.

に収録されている論文を数本読んできました。

その中には,「キレイな教授書」ではなく,生々しい個々の現場の状況や,上手くいった話だけなく葛藤などが,自分語り,私目線で記述されていたのです。でも,だからと言って,「それはあなたのところの話でしょ」とはならず,他者である僕たちも学ぶものがあると感じることができました。
すると,このように,極めて個々の文脈に根ざした形で実践が記述されるとき…「実践を他者と共有することの意味って何だろう」という論点が出てきました。

さて,ではこの記述の仕方の違いは何に由来するのか,きっと「文脈」が大事なキーワードだ!ということで読んで意見を述べ合ったのが,

・草原和博・渡部竜也編(2014)『国境・国土・領土教育の論点争点』明治図書から
渡部竜也「授業づくりにおける教師のゲートキーピングの重要性」

です。
ここでの僕たちの議論では,研究では指標を示すのか,文脈に根ざした実践を示すのか,どちらを第一に置くかで記述が変わってくるのでは…という推測に行き着きました。
どちらも,論文の読み手というか,多様な文脈の中にいる教師の主体性を前提としている点は似ていると思うのですが,判断の材料としての「指標」を示すのか,その判断がどういう「状況」で行われたのかを示すのか,の違いでしょうか。

僕たち(若手の研究者)は誰に何を語るか,聞き手はどのように聞くか


上記の議論は,僕たちにとって身近な話に広がっていきました。
僕たちは,しばしば各種研修や講演の講師をします。その際,何をどのように話せばいいんでしょう??授業実践の「ヒケツ」「ポイント」なのか,あくまで「私のお話」なのか…。
また,聞き手は他者(研究者)の実践の研究をどのように聞くのか。

この語り手の語り方と聞き手の聞き方の関係と,そこに潜む論点・課題をミナミウラさんが問題提起的に整理してくれています。

僕も,自身が講演をした研修会では,ポイントを話すにしてもベテラン教師が相手だと経験では勝負できない,ニーズもまちまち…などから,なんとなく引け目のようなものを感じながら臨みました。

でも,現場の先生が「つまずきあるある」を言い合う「場」になったこともあり,若手だからこそできることって何だろう,「場作り」って大事なんじゃないか?という論点も議論を通して得られました。

以上のように,僕たちは社会科の実践を良くしていくことを念頭に,研究と実践の関係について議論してきました。ですが,全て拾い切れたわけではないので,各回の投稿をご覧いただけたら幸いです。

間が空いてしまいましたが,実は新しい展開を目下準備中です!ご期待ください!