2014-09-24

第7回:(若手)研究者は現場教師対象の研修会で,誰に,何を,どう語るか

こんにちは,ゴトウです。

9月19日(金)に行われた議論について。
初め僕とカワグチさんが話をスタートさせて,後からミナミウラさんが合流する形でした。この時期,なんやかんやあり,慌ただしいですね。時間が合わなかったりします。

その,“なんやかんや”…の中には,これをご覧になっている方の多くが関わっているでしょうが,夏休み中の「研修会」があると思います。教員免許更新の◯◯年研修であったり,教育委員会等主催の授業づくり等の研修会であったり,僕だったら6月頃にもNIEについて講演がありました。

今日はこの研修会がテーマです。


議論の背景


研究論文などでは「(授業が上手くいく)秘訣」「ポイント」,あるいは実践を位置づけるための「軸」を語るべきか,それとも実践にまつわる物語を失敗や苦労も含めて語るかについて,南浦さんが整理してくれました。

そのお話をふまえ浮かび上がってきたのが,僕たちが現場教師たちに対して行う研修会でした。

「若手の大学教員が教員に対して『指導助言』とか『講評』をしなきゃいけないときにどんな気持ちになり,そこで何を喋るか」

しなきゃいけない…と若干ネガティブな言い回しがしてあるのは,率直な気持ちの表れです。とはいえ,これは若手の大学教員にとって単なる通過儀礼で時間が解決してくれる,という話ではなくて,誰が,誰に,どういう話をするかという問題とつながっていると思うのです。

で,今回はメンバーそれぞれ研修会で使った資料,スライドをもとに,その時の気持ちを赤裸々に語り合ったのでした。
以下,議論の模様を書いていきましょう。


研修会の事実


僕がこのお盆明けにやったのは,「高校地歴公民の授業のつくり方研修会」というものでした。恐縮ですが,今回はこれを例に。

参加者は,実際は高校地歴公民の教員だけでなく中学校社会科の教員もいました。人数は,14人。出張で途中で抜ける人もいました。
年齢層は,20代半ばから30代半ばくらい。初任者研修も兼ねていて,それ以外の人は選択で来ているそう。(すみません,本当に新米で,このあたりの詳しい仕組みはよく分かっていません)

研修は,

  1. ゴトウの講演(結果的に,2時間弱…。)
  2. メンター教員による実践例の紹介(40分程度)
  3. 昼食
  4. 参加者による実践の発表(1時間程)
  5. 中・高に分かれて各実践の改善について議論(1時間程)
  6. 議論のまとめを代表者が発表
  7. 指導主事・ゴトウによる講評

で,9時20分〜16時まででした。
このうち,ゴトウははじめの講演,昼からの議論に中学校チームに参加,講評をしました。

講演内容としては,「問い」に焦点化した話をして欲しい,授業中の一場面だけでなく,授業を貫く問い,単元・カリキュラムレベルでの問いについて,とリクエストがありました。なので,オーソドックスに社会を知る,批判的に捉える,関わる,などと社会科の目標を段階的に?整理した上で,教育実習生や親交のある現場教師の指導案,研究者が作った指導案を見ながら「どのようか」「なぜ〜か」「どうすべきか」という問いに関わらせてお話ししました。途中,ワークショップまではいきませんが「指導案中のこの問いに対して,皆さんだったらどう応えますか,どういう答えを用意しますか」と教材研究のシミュレーションのようなアクティビティを入れたりもしました。

典型的な,「ポイント」を話す講演だったと思います。
ただ,講演のまとめと,最後の講評で強調したのは,これが絶対ではないということ。例えば「どのようか」よりも「なぜ」の方がレベルが高いと言いたげなスライドだったかもしれないけれど,全ての問いをそうしろって言うことではない。歴史なら,結果からさかのぼらせるので,順を追っていく思考に慣れている子どもには準備が必要な場合もある…など,いざやってみる時の課題や「つまずきあるある」を話しました。
だから,中長期的な視点と,主体的な判断が大事と。これも含めて「ポイント」なのかも知れませんが。

午後からは参加者主体でしたが,自分たちの授業を語るということで,また若手ばかりでしたので,等身大の今現在の自分の力量で,自分の学校,教室で抱えていることなどを吐露し合う側面がかなりあった印象です。他人の授業の改善を議論する場も,「やっぱりそこの単元難しいですよね」,「この教科書だと,こことここが重複していて…」「そうそうそう!やりにくいですよね!」など。


研修会で僕(たち)が思ったこと


僕は率直に,「同世代が多くてよかった,ほっとした,話しやすかった」

カワグチ氏から直ぐさま突っ込み(笑)。
「年配の方は話しにくいってこと?引け目を感じるのはなぜ?」
僕は,
1)年上の人には敬うべきという素朴な姿勢
2)理屈とかそういう話はできても,事例はでてこない。世界史はまだ多少できるけど(高校世界史の非常勤講師の経験から),公民や日本史の事例は教えた経験をもとにできない。限りがある。
と主な理由を挙げました。
他には,
・また若手は研修が多く,実際さまざまな課題にぶつかるだろうし意識が高い人が多い。あまり聞く気がない年配の人をこれまで見たことがあるから,
・アクティビティが受ける場合もあるし,普段やっているんだから(理論的な)話が聞きたいという場合もあると。
・ベテランの大学教員の若い頃の話だと,その教員が来る前は社会科教育の専門家がいなかったので,歓迎されたらしい。ただし,これもマッチしたりしなかったり。
要は,経験では勝負できない,参加者によって意識やニーズが違う,ということ。

若手の僕らが話せることって何だ!?


議論は,経験豊富な,ベテランの大学教員と同じスタンスで同じ話ができるか,してていいのか。逆に,今の僕らだからこそできることってないか!?という話に。
しかし,これを考えていく上で出てきたのは,

講演の内容と自分の研究のギャップ


です。このメンバーは,必ずしも「よい」ものを提示することはしないスタンスであったり,授業論を研究してきたわけでもない。象徴的に言えば,発表レジュメに指導案が出てこないタイプ(笑)。
この辺りに,葛藤や引け目をそれぞれ大なり小なり感じています。それが「指導」「講評」することへの躊躇に拍車をかけています。では,どう乗り越えるのか。その一つに挙ったのは…

「場づくり」ができる!


研修会も,目的的に考えれば,参加者が一方向的に何かを吸収するだけでなく,参加者同士はもちろん,また大学教員も現場のニーズを知りたいだろうし,交流が大事だと思います。

経験も,専門性も中間的な位置の僕ら。でも,だからこそ,間を取りもつことができるのでは。例えば,各研究会で,もし社会科の大学教員が2人いたなら,若手は最後の講評というより,司会とかの役が回ってくることが予想されます。この時いろんな人に話をふり,整理し,束ねることはかなり大事なお仕事。
うん,場づくりって大事だ!

そして,よくよく思い返してみると,僕らも上手いなーと思う(中堅・ベテラン)大学教員は,場づくりマスターなところがあります。ホームページ,TAなどもある種の場づくりでしょう。ただし,いろんな授業論や視点に精通しているのも必要ではないでしょうか。

場づくりの力は,今現在でも鍛えることができるし,強みにもできそうですね。
場づくりマスターの中堅・ベテラン教員はいかにしてそうなったのか,気になるところです。

2014-08-22

第6回 コレシャディスカッション記録:研究は「ポイント」をまとめ、聞くことなのか?

ある講演会から


今回のディスカッションでは、次のような話題からはじまった。

先日、滋賀大学で「外国人児童生徒のいる教室で教科をどう教えたらいいのか」という研究プロジェクトがあり、そのための講師として僕は呼ばれた。

しかし、この話を受けて僕(※)は少し困った。というのは、そもそも「外国人児童生徒に対して教科の指導をする方法」の理論というものは「これ」というものが存在しないからだ。子どもの出身国も、母語のありようも、日本語の習得状況も、在日歴も異なる、あまりにも多様な子どもたちに対して「こうするとうまくいきますよ」という理論はない。それぞれに対して、それぞれの教師がそれぞれの間にだけ成り立つ理論を見つけていく形でしか成り立たない。

そこで、僕はその発表を、「私はどのような問題意識を持ってここまできたか、どのようなことをしていったか」ということを、自分が卒業した2002年以降、今までを通したライフヒストリーの形で語ることにした。つらつらと時系列に沿って語る出来事の中に埋め込まれた問題意識とそこからおこなった実践を語り、その中から、聞き手が読み取ってくれればいい、というふうに。

聞き手は、滋賀大学の教員と、それから滋賀大学の学生、院生の人が中心で数はそれほど多くないものだった。その中で、滋賀大学の院生――とはいっても現職教員の方――が、話し終わった後に質問をされた。質問は、「それで、結局のところポイントはどういうところなのですか」というようなことだったと思う。

正直なところ、僕は少し躊躇した。どう答えていいか一瞬迷ったのだ。もっというと、そういう質問が来ることを想定していなかった。僕が想定してたことは、もっと状況を掘り下げるような……「どういう子どもだったのか」とか「どういう現場だったのか」とかそういうことを想定していたからだ。そのとき「ポイントは何か」ということを言われるとは僕は全く想定していなかった。


「ヒケツ」を語るのか、「お話」を語るのか


第6回のコレシャのディスカッションはそういうところからはじまった。

実は、現在の学校教育をめぐるさまざまな講義、講演、研修、研究発表は、そういうことになっているのではないだろうか、ということだ。話の聞き手も受け手もどちらもが「ポイント」を語る、聞きたがっているの、そういう文化ができあがってしまっているのではないだろうか。「ポイント」を聞きたがっている人からすれば、僕がつらつらと出来事の筋を語っている様は、非常に不思議で、「なんでこの人はこんなことをだらだらと語っているんだろう。さっさとポイントを言ってくれればいいのに」という状態だったのかもしれない。

しかしそこで疑問が残るのである。はたして「ポイント」を示し、「ポイント」を聞くという姿勢は、本当に聞き手の実践に役立つのだろうか、ということだ。たしかに、誰にとっても役に立つ「ポイント」というのはあるのかもしれない。しかし、お互いの状況が違う中で、「誰に取っても役に立つポイント」は、得てして非常に「遠い話」、あるいは「あたりまえ」の話になりがちになる。例えば、学校現場の先生が、大学や附属学校の教員の話を聞いて「それは附属だからできるのだ」という言い方になるのは、あまりにもそれが「遠い話」に聞こえてしまうからだ。また、巷の本屋にある『問題解決の力を育てる社会科のポイント』のようなノウハウ本にあるようなものはたしかにポイントが示されている。「食べるものを使う」「怖い話」「びっくりする話」などなどが羅列される。たしかにそうしたものは子どもの興味を引きつけるだろうし、そこから問題解決の学習を行うことは可能だろう。しかし、それだけを聞いても、あたりまえの感は否めないし、ましてそれをどのように授業に活かせばいいのかはやはりわからない。

僕は、そういうディスカッションを聞いて、いつだったかのゼミの女子学生たちの話を思い出した。卑近な話題で申し訳ないが合コンの話だ。僕のゼミは女子学生が多いからか、ときどきそういう話題が急にわき起こるときがある。ただ、その話の中で興味深かったのは「合コン」のテクニックを得るための手段が2つあるということだ。1つは、「雑誌で合コン攻略のヒケツを読む」という方法らしい。そしてもう1つが「友だちとお茶しながら、友だちの合コンでの話を聞く」ということだ。

前者の「雑誌を読む」というほうは、「とりわける」とか「隣の席を席替え後に取る」とかそういうことがよく書かれている。ただ、それを読んだからといって、自分が率先して男の子の前で「とりわけ」をすればうまくいくかと言えばそうでもない。「とりわける」はたしかに合コンの場で一定の成功の何かを引き出すのかもしれないが、それだけをポイントとして持っていたとしても、たぶんその子の合コンは空振りに終わるだろう。

対して、もう一つの「友だちの合コン話をお茶のみながら聞く」という方。あくまでそれは友だちの話であって、自分には何の関係もない。いくら詳しく聞いても、自分がその場にいるわけではない。ただ、学生は「意外に雑誌を読むより、友だちの合コン話を聞いた方が、共感できることは多い」という。

非常に卑近な話を繰り広げた(学生の名誉のために言っておくが、僕のゼミはこんな話をいつもしているわけでは断じてない)。ただ、この話は、最初の学校教育をめぐるさまざまな研究活動の中で、一定の示唆を持っているのではないだろうか。「ポイントを語る」「ポイントを聞く」これは、もう少しアカデミックな言い方をすれば、「どこにでも通用する一般的客観的理論を語る」「一般的客観的理論を聞く」ということだろう。しかし、そうしたことは本当のところ、どこまで「自分の現場」に通用するものになるのだろうか。


実践の研究の語り、4つのパターン


そう話していく中で、ディスカッションの中で見えてきたのは、「自分の実践や研究を語る」「それを聞く」という場には、いくつかのパターンが見いだされるのかもしれない、ということだ(写真1)。
写真1 実践の研究の語り、4つのパターン

写真1にあるように、「語り手」「聞き手」という立場と、その立場の人間がどういう意識で語り、聞いていることを望んでいるかということで考えると、研究の語りには4つのパターンがあるのかもしれない。

Ⅰ)のパターンは、いわば「自分の現場から見いだされたことを『絶対的なもの』として相手に語る」スタンスのものだ。聞き手は自分の現場のことを、考えていることを、自分の文脈で話す。自分が出会った子どものこと、現場のこと、それらをつらつらと語りながら、そこから見いだされた理論を語っている。そして、聞き手には「私は子どもたちとの関わりの中からこうやって実践の理論を見つけました。いいでしょ? みなさんもこういうことをすればうまくできますよ」という風に語る。こういう形の語りをする人は意外に多い。誤解を恐れずに言えば、現場経験が長く、その中で教員の指導的な立場にある人はそういう語りをすることが多いのかもしれない。ただ、このパターンは、自分の現場経験の中で見いだされたものは、ひょっとすると自分の現場だからこそできたことなのかもしれないのに、それを往々にして聞き手に強要することにもなりかねない。

Ⅱ)のパターンは、現状の教育学会にわりと多いパターンだ。「この理論は、一般的にだれでもどこでも使えるし、教育はそうあるべきなのです。みなさんもぜひ、この考えをもってやってください」という方法。これが、「ポイントを語り、ポイントを聞く」という文化の世界のなのだろう。近年の教育の研修の場では非常に多いパターンだ。ただ、これは往々にして「べき論」の世界に陥り、理念だけが先行する話になりかねない。

基本的に、多くの教育の研究や研修の世界は、この Ⅰ)のパターンか、Ⅱ)のパターンが多い。そのために教員は、何か研究的なものを聞くときに、語り手の話を「絶対的なもの」として受け止めなければならないことが多くなる。だからこそ「結局のところポイントは何なんですか」という姿勢になってしまう。

ただ、やはり、現場は多様だ。「絶対的なもの」として話を受け止めていく限り、それは自分の現場のこととはかけ離れていたり、あるいはあたりまえにすぎたりとなってしまう。

そこで、次に出てくるのが「聞き手は語り手の話を、絶対的なものとして受け止めるのではなく、それを自分の現場の状況と比べながら、自分の現場でできること、できないこと、アレンジすること、やらないことを判断しながら聞く」、ということだ。

そう、それは第5回に出てきた「ゲートキーピング」の考え方だ。教師自身が主体的な判断者となって、自分の現場で使えるものになるように、語り手の話す理論を組み替え、アレンジしていくことを求めるという立場だ。その点はⅢもⅣも同じである。

Ⅲ)は、その第5回に出てきた、渡部論文や草原論文に出てくる考え方がそれに近いのだろう。あくまで、語り手は自分の話を「一般的にどこでも使えること」として話し、ゆえに「客観的」に話す。対して、Ⅳ)は、語り手は自分の話を「自分の現場の話」として話、ゆえに「主観的」に「私の話」として話す。

どちらがいいのだろうか。すくなくとも、現状の教育の世界では、社会科教育の世界では、Ⅲ)もⅣ)もまだまだ少数派かもしれない。ただ、Ⅲ)はある程度昔から、「研究とは、語り手は一般的なものを話し、だが聞き手は選択判断する権利を持つ」ということはコモンセンスを得てきている。対してⅣ)はまだほとんどコモンセンスを得ていない立場である。

しかし、僕は思う。

自分が自分の現場で授業を行ったとき、その話を他者に語るのをやりやすいのは、圧倒的にⅣなのだ。自分のやった実践は、あくまで自分の目の前のあの子どもたちに対して、あの教室で、あの学校で行われたものであってそれ以外ではない。ひょっとすると、クラスが違っていただけでも、違うものになったかもしれないのだ。その中で、あたかもそれが「どこにでも通用する話」として語ろうとすると、必然的に矛盾が生じてきたり、「語りたくないもの」「隠したくなる失敗」が生まれてくる。

「私の述べる授業の研究は非常に理路整然として見えますが、本当はそうじゃないのです。実際の場ではうろうろと、行ったり来たりを繰り返しています」ということを述べている方を学会発表の質疑の場で見たことがある。

実は、誰しもが、自分の実践を「理路整然としたどこにでも通用する話」に組み替えことに難しさ――ある種の矛盾――を感じているのではないだろうか。

自分の合コンで得たうまくいった話は、あくまで自分の話である。それはお茶の場でそのまま友だちに話すからこそ臨場感を生むし、ゆえに共感を生み、聞き手も自分に何かを持ち帰る。たぶんそれを、「誰でもできる、誰にでも通用する合コンのヒケツ」として話した瞬間、友だちは二度と話を聞いてくれなくなるのではないだろうか。

今回のディスカッションで、僕はそう思った。

※今回は、主題の内容を加味して、「あえて」今回の筆記者である「僕」――こと、南浦涼介を第一人称においた随筆的な散文形式で記録をしてみました。「研究」を第一人称で語る意味とその可能性も、個人的には考えてみたいと思います。

2014-08-17

第5回 コレシャディスカッションの記録:「文脈」を書くってどんな意味?

今回の担当はカワグチです。雨やら炎天下やら何やら変な天気なこの頃です。
バタバタしていて,ブログのアップが約2週間過ぎてしまいました。すみません。。

さて,2週間空いてしまったので,まずは復習から。

前回(7月28日)は,
「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試みはどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか」を課題に,同じように文脈に則って記述された2つの論文(通称:佐藤論文と山本論文)とを比較しながら,その相違点を探り,文脈に即した研究の意義を語り合おう!というものでした。

具体的には佐藤論文は「アクションリサーチ的な研究ってこんな感じかな」というイメージにあった記述。山本論文は「私(筆者)目線」の「物語/小説のようだ」というものでした。
その背景には,カリキュラム観の違いがあるなぁということで。

で,本来,今回(8月4日)は「初志の会の論文を読もう」ということになっていたのですが,不備で用意できておらず・・。スミマセン。
ということで・・・

今回のトピック


「社会科研究で,最近見られてきた新たな実践との関わり方と,前回の論文のあり方とを比較しよう!」ということに。

取り上げる文献


取り上げるのは,出版ほやほやの

草原和博・渡部竜也編(2014)『国境・国土・領土教育の論点争点』明治図書から
渡部竜也「授業づくりにおける教師のゲートキーピングの重要性」です。(以下,渡部論文とします)

渡部論文は,『国境・国土・領土教育の論点争点』で取り上げている多様な論文(例えば,実践論文では後藤・岩野・田口論文)などを取り上げて,「社会科教育研究とはどうあるべきなのか」という考えを表したものとなっています。

なぜ,これを取り上げるのか。というと,論文のタイトルにも含まれている
「ゲートキーピング(=教師によるカリキュラムと授業の主体的な調節)」という考え方は,
従来の社会科教育研究の中で主流の1つであった研究のあり方(=「(私の考える)望ましい社会科とは○○だ」というものを決定し,それを示すことで,学校現場へ貢献することをめざした)から一歩引き,あくまで「『○○すべき』と決めるのは,(多様な文脈にいる)教師自身だ」というスタンスであるためです。

従って,教育をめぐる状況は多様であり,一般化するのは難しい。そのため,あくまで文脈に根ざした語りを行おう,という,先週まで見てきた論文のスタンスと類似しているのでは・・となりました。

ディスカッションの内容


以下は,例のごとく,この論文の事実と解釈や反応が入り交じります
ディスカッションは,「スタンスは似ているが,先週までの文脈に根ざした論じ方をする論文とはどこがどのように違うのか?」という点で進んでいきました。

率直な感想


まず,違うよねという形になったのは,「文脈」というものの扱われ方。

実際,今回,渡部論文で「実践研究」として取り扱われている論文たち(例えば後藤・岩野・田口論文)には,実践の文脈(どういう学校で,どういう教師が,どういう生徒に~)というものが,ほとんど書かれていない。これは,なぜ,なんだろう?ということからスタート。

実践の記述のちがい


渡部論文で取り扱われている実践論文のあり方は,

「多様な授業実践事例をやみくもに示すことや,一つの政治思想的方向性に基づいた「正解」の授業実践事例を示すことにあるのではなく,できるだけ方向性の異なる授業実践事例を整理して示すことで社会科としていかなる授業実践が求められるのか(または回避せねばならないのか)を読者に考えてもらおう」


とするもの。

そのため,実践論文では,

①現場の多様な授業実践をいくつかの枠組みに整理するための指標を示し,
②核枠組みの典型となる授業実践の事例を紹介し,
③それぞれの事例を価値づけする(p.193)
ことになるとしています。

具体的に,紹介されていた中の1つ,後藤論文の場合は
①「事例解説・紹介型」,「判断正当化型」,「判断保留型」という類型を提示し,
②典型的な授業事例(例:谷実践・庄本実践)を取り上げ,
③それぞれの授業作りのポイント・意義と課題を示す,という方法がそれに該当するということ。

つまり,研究者として,「正解」(=授業理論・教授書)という形ではなく,現場の教師が授業を見るときの指標(視点)を示す,交通整理が大事,だということ。視点を示すからこそ,教師はそれを基に自ら実践を振り返ることができるとしている訳です。
だから,指標(視点)があれば,必ずしも文脈を書く必要はない。

考察


では,なぜ,前週までの論文は,文脈を大事にしていたんだろうか,ということに話が波及していきました。
これについては,ウダウダ話していたのですが,中でも議論の主題は,
①指標のあり方,②日常性の捉え方にあるのではないかということに。

①指標(視点)のあり方


例えば,前回の佐藤論文も,エンゲストロームの「活動システムのモデル」「拡張的学習」という,実践の特質と課題を引き出すことのできるモデルと概念を用いて,一種の類型化をしながら行っています。
ただし,その場合「活動システムのモデル」は純粋に視点であり,そこには価値付けは含まれていないのです。あくまで,自分の活動を整理するために用いている。

前回の山本論文の場合はそれもない。いくつかの「期」に分けて示していますが,それはあくまでその流れを説明するだけ。

つまり,渡部論文での実践研究は「指標」を示すことが第一におかれる(実践はあくまでもその実体)のに対し,文脈を重視した佐藤・山本論文は「実践」を示すことが第一におかれる(指標はあくまで実践を示すための指標)のではないかというのが我々が話した時の仮説です。

②日常性の捉え方

これは,前回も述べましたが,やはり実践というものを「その場所の,その学校の」「その時間の」ものとして捉えるのか,一定程度の客観化・一般化ができるものと捉えるのか,の違いなのかなと。

だからこそ,文脈を重視する実践研究は,「その場所の,その学校の」「その時間の」さらには「その子達の」「その研究者の」という「日常」の文脈が重要になってくるんでしょうか(というか,それを語ることが不可欠というかメイン)。

その後・・・


議論が,お互いの学会発表の内容へと脱線していったので,この辺で話は終わっていきました。

・・・「指標」を重視するべきか「文脈」を重視するべきか,その描き方については今後も話が進みそうです。

2014-07-30

第4回 コレシャディスカッションの記録:実践研究にはどういう記述の仕方があるのかな?

こんにちは。今回はゴトウが書きます☆

さてさて前回は,僕たちが抱いている社会科教育「研究」のイメージを吐露しあいながら,

・細川英雄・三代純平編(2014)『実践研究は何をめざすか:日本語教育における実践研究の意味と可能性』ココ出版.

という文献の2章を読んできて,感想を述べあいました。そこで僕たちから出てきたのは,特に実践研究では一般化が目指されてきたよね,その際にどういった方法がとられてたっけとかでした。他には,そういえばこんなこと言われたよねとか,僕たちが研究ぽいことをし始めた頃からの甘酸っぱい(?)思い出などです。

もちろん,そのイメージは,それこそ僕たちの一般化できない特殊な経験によるものかもしれないし,またなぜこれまでそうしたことが目指されてきたのかを,今一度おさえておく必要があると思いますが。

で,今回は,

「「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」はどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか」

ということで,これまであまり見たことないタイプの研究論文を具体的に見てみよう,それについて意見を言い合おう,と。


取り上げる研究


取り上げるのは,前回と同じ細川・三代(2014)の文献から,

・佐藤正則「日本語学校におけるカリキュラムの更新 大学院進学クラスの継続的な実践がもたらしたもの」

・山本冴里「結節点を結ぶ 「あの実践」の手ごたえと価値をめぐって」

です。以下,それぞれ佐藤論文,山本論文としましょう。


佐藤論文は,「2006年度から2009年度まで筆者が日本語学校で携わった大学院進学のクラスの実践について,カリキュラムの開発と更新という点から省察を加えるもの」です。

山本論文は,「2008年から2009年にかけて,フランスのリール第三大学で最終学年である3年生のクラスを担当した(中略)当時はできなかったけれど,今ならーある程度時間と距離を経た今なら,あの実践の具体性をー時間的・空間的な固有性を,文章にできるかもしれない」と,省察した試みです。


ディスカッションの内容

以下,この両論文の事実と僕たちの解釈や反応が入り交じりますが,ディスカッションの模様を振り返っていきましょう。
ディスカッションは,前回と同じくスカイプで,まずは両論文の「実践の記述の仕方」について率直な感想を述べあい,その上で僕たちが考える社会科教育研究との違いや共通するところを話し合ってみよう,という手順を取りました。実際は前後したんですけどね(笑)。

率直な感想

両論文は,上記の概要だけみると,事例は違うけど似た感じの研究なのかなと思われるかも知れません。でも,その記述方法は大きく違いました。

佐藤論文は,僕がメモした素朴な言葉を用いるなら,

・「(こういう書き方を)見たことがある」という点で「読みやすい」
・「アクションリサーチ的な研究ってこんな感じかな」

という記述の仕方だと思いました。

一方,山本論文は,決して悪い意味ではなく

・「私(筆者)目線」の「物語/小説のよう」で「読みやすい」でした。

他のメンバーからも同様な感想が聞かれました。
さて,なぜそう感じたのか。

両論文の実践の記述の特質

佐藤論文は,省察の視点・枠組みとして,エンゲストロームの「活動システムのモデル」「拡張的学習」という,実践の特質と課題を引き出すことのできるモデルと概念を用いているのが特徴です。このモデル,概念を用い,実践を非常にシステマティックに記述しているのです。

具体的には,「2006年度の実践と振り返り」「別校舎の同僚と2006年度の実践について話し合う」(カリキュラムの更新に影響を与えた主要な出来事)「2006年度の活動モデル」(モデルと概念に照らし合わせることで出てくる意義と課題)というような統一された構成で,各年度をまたいで記述されているのです。

この書き方は,社会科のアクションリサーチ的な研究でも最近見られるものに近く,僕たちは「PDCA的だね」と,ある種の「サイクル」として筆者の実践を見ることになりました。


山本論文は,省察の視点としては結節点・触媒・複数の代替手段という概念を用いています。が,論文の途中は実際起きたことが細かに取り上げられ,その時の筆者の気づきや思ったことなどが時系列的,記述的,主観的に著されているのです。
「私は〜と思った」という表現が散見されます。

でも,一見個人的なことを語っているようですが,なぜか「他者」が共感でき,「面白い」「学ぶものがある」と僕たちは思いました。この感覚なんなのでしょう?

考察

両論文の違いが出てくる理由としては,カリキュラム観の違いが考えられます。

佐藤論文では,そのシステマティックな記述から,カリキュラムをやや客観的なものと捉えているのではないか。僕個人の推測ですが,佐藤論文は「日本語教育全体の問題」を意識しているので,こうした課題設定と関係あるのかな…と。

一方,山本論文では,カリキュラムを問題状況に対峙する「私」との相互作用によってつくり出されるものとして捉えているのではないか。だから,その葛藤の「場」を描くことが前面に出ているのではないか。
このことについて,意図したカリキュラム(教師),実施したカリキュラム(教師),達成されたカリキュラム(学習者)という分け方に,必ずしもすっぽり収まらないところを描いているんだという指摘も出ました。「実施して「いる」時に教師が意図したことを描いている」とでも言うのでしょうか。

示唆

両論文に対しての意見交換で盛り上がってしまい,社会科との関係にまで話が進まなかったのですが…以上のディスカッションから得られたこと,派生したことを列挙すると,以下のようになりました。

・「実践を他者と共有することの意味」をもっと考えてみよう!

・このような「後から振り返る」「後から意味付け」する研究をどう捉えたらいいのか。その特質と可能性ってなんだろう。教育って,初めにねらいや目的があってしていくものだという考えがあるとすれば,研究/発表という点では,後から色々言えてしまうことは良いのか,慎むべきなのか…。

・子どもの抱える問題を丹念に記していく,社会科の初志をつらぬく会の記述の仕方とどこが同じでどこが違う?


2014-07-21

第3回 コレシャ・ディスカッション記録:実践研究の記し方

私たちの問題にしたいことの1つは、社会科の授業や実践を誰かが語るとき、それを聞く人間の、

  • なんでこの単元でこんなに時間を割くことが可能なの? 他の単元はどうなったの?
  • 他のクラスの同僚教師とどう調和をとっているの? あなたは学校の中でどういうポジションなの?
  • この学校はどういう学校なの? 公立学校でどうしたらこんなことできるの?

といった疑問に、いかに真摯にこたえていけるようになるか、ということ――。


第3回ディスカッションにいたるまで


第3回ディスカッションから、この「これからの社会科研究会」に載せていくことになりました。(第1回は設立しよう、そのためにまず何をするかと言う話、第2回はどのように発信するかという話)

第1回のときに出された私たちの問題意識は、次の点でした。

1)現在行われている「社会科」が、とくに小学校現場において多くの場合活発なものになっていないということ。
2)社会科を研究する研究会や学会のレベルで、「理論」と「実践」の間に大きな溝があるということ。もちろん、「社会科」という実践現場と切っても切れない関係にある学会だから、まったく「実践」からかけ離れたものというわけではないが、それにしても、「現場」というところからはかけ離れたものになっているように見えること。

ただし、そうはいっても問題なのは、私たち研究会のメンバーの3人は、大学の教員養成の人間であるため、直接学校の教室という「場」を持っているわけではないのです。しかも、それぞれが山口、滋賀、山梨と離れています。

そこで、まずは「実践を記述するとは、何をどのように、そしてなんのためにすることなのか」という問いを立てて、それに示唆を与えてくれるような、文献を読み、それをもとにディスカッションをすることにしました。

そこで、南浦から「読んでみよう」と取り上げたのが、細川英雄・三代純平編(2014)『実践研究は何をめざすか:日本語教育における実践研究の意味と可能性』ココ出版.でした。

これを取り上げたのは、この本が、日本語教育という分野は違うけれども、
  • 日本語教育の「実践」の捉え方、記述のしかたをラディカルに変革しようとしていること。
  • とくに、日本語の実践を「社会の変革」という観点からとらえていること。
  • そのための実践の「記述のしかた」を模索しようとしていること。

にありました。

これは、コレシャで取り扱うときに、次のような利点がありました。
  • とくに学会レベルで、『社会科』という分野を、「よりよいもの」をめざして変革しようとしていること。
  • しかしながら、「よりよい実践」をめざしそうとしていながら、学会レベルの議論は現場の状況から乖離しがちなこと。

を考える上で示唆的だと思ったのです。

ディスカッションの方法


今回の話し合いは、次のように行いました。
1)まず、今日までに上の細川・三代(2014)のうちの数編を読んでくること。少なくとも、
・「第2章 新しいパラダイムとしての実践研究:Action Researchの再解釈」(三代純平、古屋憲章、古賀和恵、武一美、虎丸真澄、長嶺倫子)
を読んでくるということ。
2)それをもとにして、その感想、気づきを、スカイプのグループトークで共有すること、を行った。
3)その記録を、第3回の担当者として、南浦からの視点でコレシャブログに掲載すること(これ)。

という方法をとっています。

ディスカッションの内容


さて、そこで話し合われた内容です。(ここからが本番。前置き長い!)
上に書いているように、ここでは話し合われたないようについて、南浦の視点から語っています。主観的と言えば主観的ですが、話し合われたことについて、それぞれの視点によってしか解釈はされないし、無味乾燥な話し合い事実の記録をここに載せてたとしても、読み手にとってもあまりそれは読まれないからです。

社会科教育の研究が前提として持っている「研究=一般化」


この本から示唆されることの1つとしていえるのは、社会科教育の多くの研究者(おそらくは実践者も)が持っている「研究するということの意味・目的」が、本書のそれとは全く異なっているということです。

多くの社会科教育の研究者にとって、研究の目的というのは、「一般化すること」にあります。もっといえば,研究者だけではなく,多くの附属学校で行われる研究も,校内研究も,そうした「前提」をもって研究が語られます。その意味で,「研究=一般化」という考え方は,日本の学校教育の関係者の多くが持つ「文化」なのかもしれません。

なぜ「研究=一般化」かといえば、「一般化すること」によって、「いろいろな現場の人間が理論として身につけることができ、それぞれの固有の現場で応用が可能になるから」というのが理由でしょうか。この発想は,「名人の授業を名人芸として終わらせるのではなく,名人の授業を,たとえば新卒の先生もできるようになる」――ということばに端的に示されます。一般化できて,汎用化できる理論に昇華するからこそ,「あなたの授業は私にも使える」となる。というのがこの発想の根底にはあります。それぞれの固有の現場の話をつらつらと話されても、それは「あなたの話」であり、「私の話」ではない――この発想の下ではしたがって、研究は常に「実践を一般化すること」「あなたの実践の中の、一般化しうる要素を分析・整理し、どこでもつかえる『グランドセオリー』にすること」が求められます。

細川・三代(2014)の「実践研究の定義」と社会科実践研究の差異


しかし、この本において、様々に考察されているけれども、最終的な「実践研究」の結論は以下の点。

実践研究:実践への参加者達が、恊働で批判的省察を行い、その実践を社会的によりよいものにしていくための実践=研究(細川・三代,2014:80)。

社会科教育の学会レベルの研究で同じベクトルである点は、後者の「社会的によりよいもの」をめざすということにあります。

ただ、その手法はかなり異なっています。「i)実践への参加者達が恊働で批判的省察をする」ということもそうですし、「ii)その実践を社会的によりよいものにしていく」という点も。

i)については、現状、社会科教育の実践研究の研究者の単位は「個」が多いです。学会で、「教師個人の専門的力量の向上が、日々の授業や子どもを変えうる唯一の方法だ」という人がいましたが、おそらく社会科教育はこれが普通の認識だと思います。実践を、立場の異なる人間が「恊働」して考察をしていくことはまだまだ端緒についたばかり。

ii)については、少し分かりにくいからも知れません。「その実践を社会的によりよいものにしていく」ということの意味は、ひょっとするとこの細川・三代(2014)でもまだ端緒についたばかりで、模索中なのかもしれません。が、今の社会科教育の研究との明らかな違いは、「現状をよりよいものにしていく」ことと「理念をよりよいものにしていく」ことの違いにあるのだと思います。

社会科教育の実践研究も、たしかに「社会的によりよいものにしていく」ことを希求した研究となっています。が、それはどちらかというと「可能性の限界」をつきつめようとします。先の言葉を借りていえば,「『名人芸』の『名人という名に値するその授業の質の良さ』を理論上可能な限りつきつめる→そのうえで,その『良さ』の要素を抽出する」という発想です。つまりは「理論上どこまで引き上げることができるか」の視点から語られます。

対して、本書で語られる「現状をよりよいものにしていく」というのは、ここではつまり、「個々の現場の抱える状況をふまえ、その状況から実践者がどれだけ可能性を引き出そうとするか」という視点で語られます。けして,「(仮想的な理論上・机上の)名人の限界点」をつきつめてその要素をあぶりだす,というような「研究=一般化」ではない。そうではなく、実践の研究とは、「研究=あなたの現場の状況にのっとり、その場の状況の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」というような位置づけになっていきます。これは、「あなたの持つ場の状況の変革・現状の変革」が中心であり,「状況を越えて可能性を追い求める=一般化する研究」とは明らかに異なる方向を示しています。

社会科の実践研究で「何が語られていないか」


この本のような発想から,思い返されるのは,社会科教育研究では「一般化」をめざしていくことにしたがって、「語られないこと」がさまざまにあるのではないだろうか,ということです。学会で発表される実践の研究は、たしかに「指導案」「計画プラン」あるいは,「こんな授業をしました」としてきれいに表のような形で表される。しかし、「現場を持つ教師」としてそうした報告を聞くと、

・なんでこの単元でこんなに時間を割くことが可能なの? 他の単元はどうなったの?
・他のクラスの同僚教師とどう調和をとっているの? あなたは学校の中でどういうポジションなの?
・この学校はどういう学校なの? 公立学校でどうしたらこんなことできるの?

など、「なぜこの授業が成立できたのか」があまりにも語られないことが気になります。このあたりの語りが、「一般化」を希求されるために捨象され、ブラックボックス化する。だから、教師はその報告を聞いても「それは附属だからできるのだ」「あなただからできるのだ」という結論にならざるをえない。だから、「使えない」という結論に至らざるを得ないのだと思います(※)。

※ちなみに、私たちの考え方として、実は、現場の教師が他者の実践を聞いて「使える」「使えない」と判断するのは、単に技術論を求めているということではない――ということもあります。
「使える/使えない」という判断は「(これは私の現場でも)使える/使えない」という判断であり、研究者が「単にテクニックだけを求めている」と、そうした教師の姿勢を批判しがちですが、実際は教師はもう少し深い判断をしているのではないか、と思います。

次回


では、そうした「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」はどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか、それを次回のディスカッションでは行います。次回は7月28日(月)に行われます。

コレシャの活動方針

コレシャの活動の方法

コレシャでは、


  1. 「社会」の教育の実践をよりよいものにしていくこと。
  2. 1を希求する教師が自分の抱える現場の状況の改善や実践の向上に資するものになること。
  3. 1や2のための「研究のしかた」「発信のしかた」といった「研究のありかた」を考えていくこと。
が目的ですが、そのための活動は次のように行っています。まだ、模索中のところが多いですが、現時点での活動方針です。

1 ウェブ上でのディスカッション

基本的に、コレシャは「ウェブ」という機能を生かした研究会です。スカイプやgoogle+を用いたディスカッションや報告会を開きます。

2 議論をブログ形式で外に開く

スカイプやgoogle+を用いたディスカッションで得たことを、ブログ形式のこのページで、まとめとして発信していきます。

これによって、地の利にとらわれず、それぞれの会員の所属や肩書きにとらわれない、フラットな関係による研究会を実現し、また、その中身を内部で閉じてしまわず、外に開いた形を模索できるようにしています。

会のメンバー(2014.7.21時点)

コレシャの会の設立メンバーです。現時点。


  • 南浦 涼介(みなみうらりょうすけ):山口大学教育学部で教員をしています。
  • 川口 広美(かわぐちひろみ):滋賀大学教育学部で教員をしています。
  • 後藤 賢次郎(ごとうけんじろう):山梨大学教育人間科学部で教員をしています。


現在は大学若手研究者で成立しています。ブログ閲覧やコメントは、会員ではなくても可能です。



「これからの社会科研究会」とは? ―ごあいさつ―

「これからの社会科研究会」です。よろしくお願いいたします。


この研究会は、2014年6月、「社会を学ぶ」「社会を考える」「社会に生きる」ための教育や授業など、社会を学ぶ/教える「実践」を考えていくための研究会として生まれました。

キーワードは「ともに『これから』を考える」「ふりかえりながら『これから』を考える」「社会を学ぶ教育の『これから』を考える」です。

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いまのところ(2014年7月)は、「社会科」という学校教育の教科の話が中心です。ただそれにとらわれず「社会を学ぶ」ための教育の全体のことを見通したものになっていきたい、と考えています。

大きく、研究会の目的は3つです。

  1. 「社会」の教育の実践をよりよいものにしていくこと。
  2. 1を希求する教師が自分の抱える現場の状況の改善や実践の向上に資するものになること。
  3. 1や2のための「研究のしかた」「発信のしかた」といった「研究のありかた」を考えていくこと。

実際、これまでにも多くの「社会科の研究会」「学会」というものは存在していました。しかし、この研究会は「これまで」のさまざまな研究会のしがらみにとらわれないでやっていきたいと思っています。

この研究会は、2014年6月の発足時点では、3人の「若手」の「研究者」でつくられています。ただ、研究者とはいっても、別に象牙の塔にいるわけではありません。「学校」と関わりながら、自分たち自身も大学で教員養成の仕事をしながら、日々の授業をよりよくしていこうと模索する者です。その意味で、全員が場は違っていても「現場であること」を強く意識しています。

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そういう意味もあり、この「これからの社会科研究会」は、上の目的のために、「これから」という未来志向の研究を、冒頭の3つのキーワードを掲げます。略称は「コレシャ(Co-re-sha)」です。よろしくおねがいします。


  • "Co" は,"cooperation”……「ともに」「協働に」という音として。
  • "re" は,"refection"という「省察」や,"reframeing" という「つくりなおす」「とらえなおす」……「ふりかえる」という音として。
  • "sha"は,社会……世の中を考えることばの音として。