2014-07-30

第4回 コレシャディスカッションの記録:実践研究にはどういう記述の仕方があるのかな?

こんにちは。今回はゴトウが書きます☆

さてさて前回は,僕たちが抱いている社会科教育「研究」のイメージを吐露しあいながら,

・細川英雄・三代純平編(2014)『実践研究は何をめざすか:日本語教育における実践研究の意味と可能性』ココ出版.

という文献の2章を読んできて,感想を述べあいました。そこで僕たちから出てきたのは,特に実践研究では一般化が目指されてきたよね,その際にどういった方法がとられてたっけとかでした。他には,そういえばこんなこと言われたよねとか,僕たちが研究ぽいことをし始めた頃からの甘酸っぱい(?)思い出などです。

もちろん,そのイメージは,それこそ僕たちの一般化できない特殊な経験によるものかもしれないし,またなぜこれまでそうしたことが目指されてきたのかを,今一度おさえておく必要があると思いますが。

で,今回は,

「「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」はどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか」

ということで,これまであまり見たことないタイプの研究論文を具体的に見てみよう,それについて意見を言い合おう,と。


取り上げる研究


取り上げるのは,前回と同じ細川・三代(2014)の文献から,

・佐藤正則「日本語学校におけるカリキュラムの更新 大学院進学クラスの継続的な実践がもたらしたもの」

・山本冴里「結節点を結ぶ 「あの実践」の手ごたえと価値をめぐって」

です。以下,それぞれ佐藤論文,山本論文としましょう。


佐藤論文は,「2006年度から2009年度まで筆者が日本語学校で携わった大学院進学のクラスの実践について,カリキュラムの開発と更新という点から省察を加えるもの」です。

山本論文は,「2008年から2009年にかけて,フランスのリール第三大学で最終学年である3年生のクラスを担当した(中略)当時はできなかったけれど,今ならーある程度時間と距離を経た今なら,あの実践の具体性をー時間的・空間的な固有性を,文章にできるかもしれない」と,省察した試みです。


ディスカッションの内容

以下,この両論文の事実と僕たちの解釈や反応が入り交じりますが,ディスカッションの模様を振り返っていきましょう。
ディスカッションは,前回と同じくスカイプで,まずは両論文の「実践の記述の仕方」について率直な感想を述べあい,その上で僕たちが考える社会科教育研究との違いや共通するところを話し合ってみよう,という手順を取りました。実際は前後したんですけどね(笑)。

率直な感想

両論文は,上記の概要だけみると,事例は違うけど似た感じの研究なのかなと思われるかも知れません。でも,その記述方法は大きく違いました。

佐藤論文は,僕がメモした素朴な言葉を用いるなら,

・「(こういう書き方を)見たことがある」という点で「読みやすい」
・「アクションリサーチ的な研究ってこんな感じかな」

という記述の仕方だと思いました。

一方,山本論文は,決して悪い意味ではなく

・「私(筆者)目線」の「物語/小説のよう」で「読みやすい」でした。

他のメンバーからも同様な感想が聞かれました。
さて,なぜそう感じたのか。

両論文の実践の記述の特質

佐藤論文は,省察の視点・枠組みとして,エンゲストロームの「活動システムのモデル」「拡張的学習」という,実践の特質と課題を引き出すことのできるモデルと概念を用いているのが特徴です。このモデル,概念を用い,実践を非常にシステマティックに記述しているのです。

具体的には,「2006年度の実践と振り返り」「別校舎の同僚と2006年度の実践について話し合う」(カリキュラムの更新に影響を与えた主要な出来事)「2006年度の活動モデル」(モデルと概念に照らし合わせることで出てくる意義と課題)というような統一された構成で,各年度をまたいで記述されているのです。

この書き方は,社会科のアクションリサーチ的な研究でも最近見られるものに近く,僕たちは「PDCA的だね」と,ある種の「サイクル」として筆者の実践を見ることになりました。


山本論文は,省察の視点としては結節点・触媒・複数の代替手段という概念を用いています。が,論文の途中は実際起きたことが細かに取り上げられ,その時の筆者の気づきや思ったことなどが時系列的,記述的,主観的に著されているのです。
「私は〜と思った」という表現が散見されます。

でも,一見個人的なことを語っているようですが,なぜか「他者」が共感でき,「面白い」「学ぶものがある」と僕たちは思いました。この感覚なんなのでしょう?

考察

両論文の違いが出てくる理由としては,カリキュラム観の違いが考えられます。

佐藤論文では,そのシステマティックな記述から,カリキュラムをやや客観的なものと捉えているのではないか。僕個人の推測ですが,佐藤論文は「日本語教育全体の問題」を意識しているので,こうした課題設定と関係あるのかな…と。

一方,山本論文では,カリキュラムを問題状況に対峙する「私」との相互作用によってつくり出されるものとして捉えているのではないか。だから,その葛藤の「場」を描くことが前面に出ているのではないか。
このことについて,意図したカリキュラム(教師),実施したカリキュラム(教師),達成されたカリキュラム(学習者)という分け方に,必ずしもすっぽり収まらないところを描いているんだという指摘も出ました。「実施して「いる」時に教師が意図したことを描いている」とでも言うのでしょうか。

示唆

両論文に対しての意見交換で盛り上がってしまい,社会科との関係にまで話が進まなかったのですが…以上のディスカッションから得られたこと,派生したことを列挙すると,以下のようになりました。

・「実践を他者と共有することの意味」をもっと考えてみよう!

・このような「後から振り返る」「後から意味付け」する研究をどう捉えたらいいのか。その特質と可能性ってなんだろう。教育って,初めにねらいや目的があってしていくものだという考えがあるとすれば,研究/発表という点では,後から色々言えてしまうことは良いのか,慎むべきなのか…。

・子どもの抱える問題を丹念に記していく,社会科の初志をつらぬく会の記述の仕方とどこが同じでどこが違う?


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