2014-07-21

第3回 コレシャ・ディスカッション記録:実践研究の記し方

私たちの問題にしたいことの1つは、社会科の授業や実践を誰かが語るとき、それを聞く人間の、

  • なんでこの単元でこんなに時間を割くことが可能なの? 他の単元はどうなったの?
  • 他のクラスの同僚教師とどう調和をとっているの? あなたは学校の中でどういうポジションなの?
  • この学校はどういう学校なの? 公立学校でどうしたらこんなことできるの?

といった疑問に、いかに真摯にこたえていけるようになるか、ということ――。


第3回ディスカッションにいたるまで


第3回ディスカッションから、この「これからの社会科研究会」に載せていくことになりました。(第1回は設立しよう、そのためにまず何をするかと言う話、第2回はどのように発信するかという話)

第1回のときに出された私たちの問題意識は、次の点でした。

1)現在行われている「社会科」が、とくに小学校現場において多くの場合活発なものになっていないということ。
2)社会科を研究する研究会や学会のレベルで、「理論」と「実践」の間に大きな溝があるということ。もちろん、「社会科」という実践現場と切っても切れない関係にある学会だから、まったく「実践」からかけ離れたものというわけではないが、それにしても、「現場」というところからはかけ離れたものになっているように見えること。

ただし、そうはいっても問題なのは、私たち研究会のメンバーの3人は、大学の教員養成の人間であるため、直接学校の教室という「場」を持っているわけではないのです。しかも、それぞれが山口、滋賀、山梨と離れています。

そこで、まずは「実践を記述するとは、何をどのように、そしてなんのためにすることなのか」という問いを立てて、それに示唆を与えてくれるような、文献を読み、それをもとにディスカッションをすることにしました。

そこで、南浦から「読んでみよう」と取り上げたのが、細川英雄・三代純平編(2014)『実践研究は何をめざすか:日本語教育における実践研究の意味と可能性』ココ出版.でした。

これを取り上げたのは、この本が、日本語教育という分野は違うけれども、
  • 日本語教育の「実践」の捉え方、記述のしかたをラディカルに変革しようとしていること。
  • とくに、日本語の実践を「社会の変革」という観点からとらえていること。
  • そのための実践の「記述のしかた」を模索しようとしていること。

にありました。

これは、コレシャで取り扱うときに、次のような利点がありました。
  • とくに学会レベルで、『社会科』という分野を、「よりよいもの」をめざして変革しようとしていること。
  • しかしながら、「よりよい実践」をめざしそうとしていながら、学会レベルの議論は現場の状況から乖離しがちなこと。

を考える上で示唆的だと思ったのです。

ディスカッションの方法


今回の話し合いは、次のように行いました。
1)まず、今日までに上の細川・三代(2014)のうちの数編を読んでくること。少なくとも、
・「第2章 新しいパラダイムとしての実践研究:Action Researchの再解釈」(三代純平、古屋憲章、古賀和恵、武一美、虎丸真澄、長嶺倫子)
を読んでくるということ。
2)それをもとにして、その感想、気づきを、スカイプのグループトークで共有すること、を行った。
3)その記録を、第3回の担当者として、南浦からの視点でコレシャブログに掲載すること(これ)。

という方法をとっています。

ディスカッションの内容


さて、そこで話し合われた内容です。(ここからが本番。前置き長い!)
上に書いているように、ここでは話し合われたないようについて、南浦の視点から語っています。主観的と言えば主観的ですが、話し合われたことについて、それぞれの視点によってしか解釈はされないし、無味乾燥な話し合い事実の記録をここに載せてたとしても、読み手にとってもあまりそれは読まれないからです。

社会科教育の研究が前提として持っている「研究=一般化」


この本から示唆されることの1つとしていえるのは、社会科教育の多くの研究者(おそらくは実践者も)が持っている「研究するということの意味・目的」が、本書のそれとは全く異なっているということです。

多くの社会科教育の研究者にとって、研究の目的というのは、「一般化すること」にあります。もっといえば,研究者だけではなく,多くの附属学校で行われる研究も,校内研究も,そうした「前提」をもって研究が語られます。その意味で,「研究=一般化」という考え方は,日本の学校教育の関係者の多くが持つ「文化」なのかもしれません。

なぜ「研究=一般化」かといえば、「一般化すること」によって、「いろいろな現場の人間が理論として身につけることができ、それぞれの固有の現場で応用が可能になるから」というのが理由でしょうか。この発想は,「名人の授業を名人芸として終わらせるのではなく,名人の授業を,たとえば新卒の先生もできるようになる」――ということばに端的に示されます。一般化できて,汎用化できる理論に昇華するからこそ,「あなたの授業は私にも使える」となる。というのがこの発想の根底にはあります。それぞれの固有の現場の話をつらつらと話されても、それは「あなたの話」であり、「私の話」ではない――この発想の下ではしたがって、研究は常に「実践を一般化すること」「あなたの実践の中の、一般化しうる要素を分析・整理し、どこでもつかえる『グランドセオリー』にすること」が求められます。

細川・三代(2014)の「実践研究の定義」と社会科実践研究の差異


しかし、この本において、様々に考察されているけれども、最終的な「実践研究」の結論は以下の点。

実践研究:実践への参加者達が、恊働で批判的省察を行い、その実践を社会的によりよいものにしていくための実践=研究(細川・三代,2014:80)。

社会科教育の学会レベルの研究で同じベクトルである点は、後者の「社会的によりよいもの」をめざすということにあります。

ただ、その手法はかなり異なっています。「i)実践への参加者達が恊働で批判的省察をする」ということもそうですし、「ii)その実践を社会的によりよいものにしていく」という点も。

i)については、現状、社会科教育の実践研究の研究者の単位は「個」が多いです。学会で、「教師個人の専門的力量の向上が、日々の授業や子どもを変えうる唯一の方法だ」という人がいましたが、おそらく社会科教育はこれが普通の認識だと思います。実践を、立場の異なる人間が「恊働」して考察をしていくことはまだまだ端緒についたばかり。

ii)については、少し分かりにくいからも知れません。「その実践を社会的によりよいものにしていく」ということの意味は、ひょっとするとこの細川・三代(2014)でもまだ端緒についたばかりで、模索中なのかもしれません。が、今の社会科教育の研究との明らかな違いは、「現状をよりよいものにしていく」ことと「理念をよりよいものにしていく」ことの違いにあるのだと思います。

社会科教育の実践研究も、たしかに「社会的によりよいものにしていく」ことを希求した研究となっています。が、それはどちらかというと「可能性の限界」をつきつめようとします。先の言葉を借りていえば,「『名人芸』の『名人という名に値するその授業の質の良さ』を理論上可能な限りつきつめる→そのうえで,その『良さ』の要素を抽出する」という発想です。つまりは「理論上どこまで引き上げることができるか」の視点から語られます。

対して、本書で語られる「現状をよりよいものにしていく」というのは、ここではつまり、「個々の現場の抱える状況をふまえ、その状況から実践者がどれだけ可能性を引き出そうとするか」という視点で語られます。けして,「(仮想的な理論上・机上の)名人の限界点」をつきつめてその要素をあぶりだす,というような「研究=一般化」ではない。そうではなく、実践の研究とは、「研究=あなたの現場の状況にのっとり、その場の状況の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」というような位置づけになっていきます。これは、「あなたの持つ場の状況の変革・現状の変革」が中心であり,「状況を越えて可能性を追い求める=一般化する研究」とは明らかに異なる方向を示しています。

社会科の実践研究で「何が語られていないか」


この本のような発想から,思い返されるのは,社会科教育研究では「一般化」をめざしていくことにしたがって、「語られないこと」がさまざまにあるのではないだろうか,ということです。学会で発表される実践の研究は、たしかに「指導案」「計画プラン」あるいは,「こんな授業をしました」としてきれいに表のような形で表される。しかし、「現場を持つ教師」としてそうした報告を聞くと、

・なんでこの単元でこんなに時間を割くことが可能なの? 他の単元はどうなったの?
・他のクラスの同僚教師とどう調和をとっているの? あなたは学校の中でどういうポジションなの?
・この学校はどういう学校なの? 公立学校でどうしたらこんなことできるの?

など、「なぜこの授業が成立できたのか」があまりにも語られないことが気になります。このあたりの語りが、「一般化」を希求されるために捨象され、ブラックボックス化する。だから、教師はその報告を聞いても「それは附属だからできるのだ」「あなただからできるのだ」という結論にならざるをえない。だから、「使えない」という結論に至らざるを得ないのだと思います(※)。

※ちなみに、私たちの考え方として、実は、現場の教師が他者の実践を聞いて「使える」「使えない」と判断するのは、単に技術論を求めているということではない――ということもあります。
「使える/使えない」という判断は「(これは私の現場でも)使える/使えない」という判断であり、研究者が「単にテクニックだけを求めている」と、そうした教師の姿勢を批判しがちですが、実際は教師はもう少し深い判断をしているのではないか、と思います。

次回


では、そうした「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試み」はどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか、それを次回のディスカッションでは行います。次回は7月28日(月)に行われます。

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