2014-08-17

第5回 コレシャディスカッションの記録:「文脈」を書くってどんな意味?

今回の担当はカワグチです。雨やら炎天下やら何やら変な天気なこの頃です。
バタバタしていて,ブログのアップが約2週間過ぎてしまいました。すみません。。

さて,2週間空いてしまったので,まずは復習から。

前回(7月28日)は,
「研究=文脈にのっとり、その文脈の中でいかに可能性(状況の改善、変革)をひきだしていくか、その模索の試みはどのような形で記述されるのか。その研究は具体的にどうなっているのか」を課題に,同じように文脈に則って記述された2つの論文(通称:佐藤論文と山本論文)とを比較しながら,その相違点を探り,文脈に即した研究の意義を語り合おう!というものでした。

具体的には佐藤論文は「アクションリサーチ的な研究ってこんな感じかな」というイメージにあった記述。山本論文は「私(筆者)目線」の「物語/小説のようだ」というものでした。
その背景には,カリキュラム観の違いがあるなぁということで。

で,本来,今回(8月4日)は「初志の会の論文を読もう」ということになっていたのですが,不備で用意できておらず・・。スミマセン。
ということで・・・

今回のトピック


「社会科研究で,最近見られてきた新たな実践との関わり方と,前回の論文のあり方とを比較しよう!」ということに。

取り上げる文献


取り上げるのは,出版ほやほやの

草原和博・渡部竜也編(2014)『国境・国土・領土教育の論点争点』明治図書から
渡部竜也「授業づくりにおける教師のゲートキーピングの重要性」です。(以下,渡部論文とします)

渡部論文は,『国境・国土・領土教育の論点争点』で取り上げている多様な論文(例えば,実践論文では後藤・岩野・田口論文)などを取り上げて,「社会科教育研究とはどうあるべきなのか」という考えを表したものとなっています。

なぜ,これを取り上げるのか。というと,論文のタイトルにも含まれている
「ゲートキーピング(=教師によるカリキュラムと授業の主体的な調節)」という考え方は,
従来の社会科教育研究の中で主流の1つであった研究のあり方(=「(私の考える)望ましい社会科とは○○だ」というものを決定し,それを示すことで,学校現場へ貢献することをめざした)から一歩引き,あくまで「『○○すべき』と決めるのは,(多様な文脈にいる)教師自身だ」というスタンスであるためです。

従って,教育をめぐる状況は多様であり,一般化するのは難しい。そのため,あくまで文脈に根ざした語りを行おう,という,先週まで見てきた論文のスタンスと類似しているのでは・・となりました。

ディスカッションの内容


以下は,例のごとく,この論文の事実と解釈や反応が入り交じります
ディスカッションは,「スタンスは似ているが,先週までの文脈に根ざした論じ方をする論文とはどこがどのように違うのか?」という点で進んでいきました。

率直な感想


まず,違うよねという形になったのは,「文脈」というものの扱われ方。

実際,今回,渡部論文で「実践研究」として取り扱われている論文たち(例えば後藤・岩野・田口論文)には,実践の文脈(どういう学校で,どういう教師が,どういう生徒に~)というものが,ほとんど書かれていない。これは,なぜ,なんだろう?ということからスタート。

実践の記述のちがい


渡部論文で取り扱われている実践論文のあり方は,

「多様な授業実践事例をやみくもに示すことや,一つの政治思想的方向性に基づいた「正解」の授業実践事例を示すことにあるのではなく,できるだけ方向性の異なる授業実践事例を整理して示すことで社会科としていかなる授業実践が求められるのか(または回避せねばならないのか)を読者に考えてもらおう」


とするもの。

そのため,実践論文では,

①現場の多様な授業実践をいくつかの枠組みに整理するための指標を示し,
②核枠組みの典型となる授業実践の事例を紹介し,
③それぞれの事例を価値づけする(p.193)
ことになるとしています。

具体的に,紹介されていた中の1つ,後藤論文の場合は
①「事例解説・紹介型」,「判断正当化型」,「判断保留型」という類型を提示し,
②典型的な授業事例(例:谷実践・庄本実践)を取り上げ,
③それぞれの授業作りのポイント・意義と課題を示す,という方法がそれに該当するということ。

つまり,研究者として,「正解」(=授業理論・教授書)という形ではなく,現場の教師が授業を見るときの指標(視点)を示す,交通整理が大事,だということ。視点を示すからこそ,教師はそれを基に自ら実践を振り返ることができるとしている訳です。
だから,指標(視点)があれば,必ずしも文脈を書く必要はない。

考察


では,なぜ,前週までの論文は,文脈を大事にしていたんだろうか,ということに話が波及していきました。
これについては,ウダウダ話していたのですが,中でも議論の主題は,
①指標のあり方,②日常性の捉え方にあるのではないかということに。

①指標(視点)のあり方


例えば,前回の佐藤論文も,エンゲストロームの「活動システムのモデル」「拡張的学習」という,実践の特質と課題を引き出すことのできるモデルと概念を用いて,一種の類型化をしながら行っています。
ただし,その場合「活動システムのモデル」は純粋に視点であり,そこには価値付けは含まれていないのです。あくまで,自分の活動を整理するために用いている。

前回の山本論文の場合はそれもない。いくつかの「期」に分けて示していますが,それはあくまでその流れを説明するだけ。

つまり,渡部論文での実践研究は「指標」を示すことが第一におかれる(実践はあくまでもその実体)のに対し,文脈を重視した佐藤・山本論文は「実践」を示すことが第一におかれる(指標はあくまで実践を示すための指標)のではないかというのが我々が話した時の仮説です。

②日常性の捉え方

これは,前回も述べましたが,やはり実践というものを「その場所の,その学校の」「その時間の」ものとして捉えるのか,一定程度の客観化・一般化ができるものと捉えるのか,の違いなのかなと。

だからこそ,文脈を重視する実践研究は,「その場所の,その学校の」「その時間の」さらには「その子達の」「その研究者の」という「日常」の文脈が重要になってくるんでしょうか(というか,それを語ることが不可欠というかメイン)。

その後・・・


議論が,お互いの学会発表の内容へと脱線していったので,この辺で話は終わっていきました。

・・・「指標」を重視するべきか「文脈」を重視するべきか,その描き方については今後も話が進みそうです。

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