ある講演会から
今回のディスカッションでは、次のような話題からはじまった。
先日、滋賀大学で「外国人児童生徒のいる教室で教科をどう教えたらいいのか」という研究プロジェクトがあり、そのための講師として僕は呼ばれた。
しかし、この話を受けて僕(※)は少し困った。というのは、そもそも「外国人児童生徒に対して教科の指導をする方法」の理論というものは「これ」というものが存在しないからだ。子どもの出身国も、母語のありようも、日本語の習得状況も、在日歴も異なる、あまりにも多様な子どもたちに対して「こうするとうまくいきますよ」という理論はない。それぞれに対して、それぞれの教師がそれぞれの間にだけ成り立つ理論を見つけていく形でしか成り立たない。
そこで、僕はその発表を、「私はどのような問題意識を持ってここまできたか、どのようなことをしていったか」ということを、自分が卒業した2002年以降、今までを通したライフヒストリーの形で語ることにした。つらつらと時系列に沿って語る出来事の中に埋め込まれた問題意識とそこからおこなった実践を語り、その中から、聞き手が読み取ってくれればいい、というふうに。
聞き手は、滋賀大学の教員と、それから滋賀大学の学生、院生の人が中心で数はそれほど多くないものだった。その中で、滋賀大学の院生――とはいっても現職教員の方――が、話し終わった後に質問をされた。質問は、「それで、結局のところポイントはどういうところなのですか」というようなことだったと思う。
正直なところ、僕は少し躊躇した。どう答えていいか一瞬迷ったのだ。もっというと、そういう質問が来ることを想定していなかった。僕が想定してたことは、もっと状況を掘り下げるような……「どういう子どもだったのか」とか「どういう現場だったのか」とかそういうことを想定していたからだ。そのとき「ポイントは何か」ということを言われるとは僕は全く想定していなかった。
「ヒケツ」を語るのか、「お話」を語るのか
第6回のコレシャのディスカッションはそういうところからはじまった。
実は、現在の学校教育をめぐるさまざまな講義、講演、研修、研究発表は、そういうことになっているのではないだろうか、ということだ。話の聞き手も受け手もどちらもが「ポイント」を語る、聞きたがっているの、そういう文化ができあがってしまっているのではないだろうか。「ポイント」を聞きたがっている人からすれば、僕がつらつらと出来事の筋を語っている様は、非常に不思議で、「なんでこの人はこんなことをだらだらと語っているんだろう。さっさとポイントを言ってくれればいいのに」という状態だったのかもしれない。
しかしそこで疑問が残るのである。はたして「ポイント」を示し、「ポイント」を聞くという姿勢は、本当に聞き手の実践に役立つのだろうか、ということだ。たしかに、誰にとっても役に立つ「ポイント」というのはあるのかもしれない。しかし、お互いの状況が違う中で、「誰に取っても役に立つポイント」は、得てして非常に「遠い話」、あるいは「あたりまえ」の話になりがちになる。例えば、学校現場の先生が、大学や附属学校の教員の話を聞いて「それは附属だからできるのだ」という言い方になるのは、あまりにもそれが「遠い話」に聞こえてしまうからだ。また、巷の本屋にある『問題解決の力を育てる社会科のポイント』のようなノウハウ本にあるようなものはたしかにポイントが示されている。「食べるものを使う」「怖い話」「びっくりする話」などなどが羅列される。たしかにそうしたものは子どもの興味を引きつけるだろうし、そこから問題解決の学習を行うことは可能だろう。しかし、それだけを聞いても、あたりまえの感は否めないし、ましてそれをどのように授業に活かせばいいのかはやはりわからない。
僕は、そういうディスカッションを聞いて、いつだったかのゼミの女子学生たちの話を思い出した。卑近な話題で申し訳ないが合コンの話だ。僕のゼミは女子学生が多いからか、ときどきそういう話題が急にわき起こるときがある。ただ、その話の中で興味深かったのは「合コン」のテクニックを得るための手段が2つあるということだ。1つは、「雑誌で合コン攻略のヒケツを読む」という方法らしい。そしてもう1つが「友だちとお茶しながら、友だちの合コンでの話を聞く」ということだ。
前者の「雑誌を読む」というほうは、「とりわける」とか「隣の席を席替え後に取る」とかそういうことがよく書かれている。ただ、それを読んだからといって、自分が率先して男の子の前で「とりわけ」をすればうまくいくかと言えばそうでもない。「とりわける」はたしかに合コンの場で一定の成功の何かを引き出すのかもしれないが、それだけをポイントとして持っていたとしても、たぶんその子の合コンは空振りに終わるだろう。
対して、もう一つの「友だちの合コン話をお茶のみながら聞く」という方。あくまでそれは友だちの話であって、自分には何の関係もない。いくら詳しく聞いても、自分がその場にいるわけではない。ただ、学生は「意外に雑誌を読むより、友だちの合コン話を聞いた方が、共感できることは多い」という。
非常に卑近な話を繰り広げた(学生の名誉のために言っておくが、僕のゼミはこんな話をいつもしているわけでは断じてない)。ただ、この話は、最初の学校教育をめぐるさまざまな研究活動の中で、一定の示唆を持っているのではないだろうか。「ポイントを語る」「ポイントを聞く」これは、もう少しアカデミックな言い方をすれば、「どこにでも通用する一般的客観的理論を語る」「一般的客観的理論を聞く」ということだろう。しかし、そうしたことは本当のところ、どこまで「自分の現場」に通用するものになるのだろうか。
実践の研究の語り、4つのパターン
そう話していく中で、ディスカッションの中で見えてきたのは、「自分の実践や研究を語る」「それを聞く」という場には、いくつかのパターンが見いだされるのかもしれない、ということだ(写真1)。
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| 写真1 実践の研究の語り、4つのパターン |
写真1にあるように、「語り手」「聞き手」という立場と、その立場の人間がどういう意識で語り、聞いていることを望んでいるかということで考えると、研究の語りには4つのパターンがあるのかもしれない。
Ⅰ)のパターンは、いわば「自分の現場から見いだされたことを『絶対的なもの』として相手に語る」スタンスのものだ。聞き手は自分の現場のことを、考えていることを、自分の文脈で話す。自分が出会った子どものこと、現場のこと、それらをつらつらと語りながら、そこから見いだされた理論を語っている。そして、聞き手には「私は子どもたちとの関わりの中からこうやって実践の理論を見つけました。いいでしょ? みなさんもこういうことをすればうまくできますよ」という風に語る。こういう形の語りをする人は意外に多い。誤解を恐れずに言えば、現場経験が長く、その中で教員の指導的な立場にある人はそういう語りをすることが多いのかもしれない。ただ、このパターンは、自分の現場経験の中で見いだされたものは、ひょっとすると自分の現場だからこそできたことなのかもしれないのに、それを往々にして聞き手に強要することにもなりかねない。
Ⅱ)のパターンは、現状の教育学会にわりと多いパターンだ。「この理論は、一般的にだれでもどこでも使えるし、教育はそうあるべきなのです。みなさんもぜひ、この考えをもってやってください」という方法。これが、「ポイントを語り、ポイントを聞く」という文化の世界のなのだろう。近年の教育の研修の場では非常に多いパターンだ。ただ、これは往々にして「べき論」の世界に陥り、理念だけが先行する話になりかねない。
基本的に、多くの教育の研究や研修の世界は、この Ⅰ)のパターンか、Ⅱ)のパターンが多い。そのために教員は、何か研究的なものを聞くときに、語り手の話を「絶対的なもの」として受け止めなければならないことが多くなる。だからこそ「結局のところポイントは何なんですか」という姿勢になってしまう。
ただ、やはり、現場は多様だ。「絶対的なもの」として話を受け止めていく限り、それは自分の現場のこととはかけ離れていたり、あるいはあたりまえにすぎたりとなってしまう。
そこで、次に出てくるのが「聞き手は語り手の話を、絶対的なものとして受け止めるのではなく、それを自分の現場の状況と比べながら、自分の現場でできること、できないこと、アレンジすること、やらないことを判断しながら聞く」、ということだ。
そう、それは第5回に出てきた「ゲートキーピング」の考え方だ。教師自身が主体的な判断者となって、自分の現場で使えるものになるように、語り手の話す理論を組み替え、アレンジしていくことを求めるという立場だ。その点はⅢもⅣも同じである。
Ⅲ)は、その第5回に出てきた、渡部論文や草原論文に出てくる考え方がそれに近いのだろう。あくまで、語り手は自分の話を「一般的にどこでも使えること」として話し、ゆえに「客観的」に話す。対して、Ⅳ)は、語り手は自分の話を「自分の現場の話」として話、ゆえに「主観的」に「私の話」として話す。
どちらがいいのだろうか。すくなくとも、現状の教育の世界では、社会科教育の世界では、Ⅲ)もⅣ)もまだまだ少数派かもしれない。ただ、Ⅲ)はある程度昔から、「研究とは、語り手は一般的なものを話し、だが聞き手は選択判断する権利を持つ」ということはコモンセンスを得てきている。対してⅣ)はまだほとんどコモンセンスを得ていない立場である。
しかし、僕は思う。
自分が自分の現場で授業を行ったとき、その話を他者に語るのをやりやすいのは、圧倒的にⅣなのだ。自分のやった実践は、あくまで自分の目の前のあの子どもたちに対して、あの教室で、あの学校で行われたものであってそれ以外ではない。ひょっとすると、クラスが違っていただけでも、違うものになったかもしれないのだ。その中で、あたかもそれが「どこにでも通用する話」として語ろうとすると、必然的に矛盾が生じてきたり、「語りたくないもの」「隠したくなる失敗」が生まれてくる。
「私の述べる授業の研究は非常に理路整然として見えますが、本当はそうじゃないのです。実際の場ではうろうろと、行ったり来たりを繰り返しています」ということを述べている方を学会発表の質疑の場で見たことがある。
実は、誰しもが、自分の実践を「理路整然としたどこにでも通用する話」に組み替えことに難しさ――ある種の矛盾――を感じているのではないだろうか。
自分の合コンで得たうまくいった話は、あくまで自分の話である。それはお茶の場でそのまま友だちに話すからこそ臨場感を生むし、ゆえに共感を生み、聞き手も自分に何かを持ち帰る。たぶんそれを、「誰でもできる、誰にでも通用する合コンのヒケツ」として話した瞬間、友だちは二度と話を聞いてくれなくなるのではないだろうか。
今回のディスカッションで、僕はそう思った。
※今回は、主題の内容を加味して、「あえて」今回の筆記者である「僕」――こと、南浦涼介を第一人称においた随筆的な散文形式で記録をしてみました。「研究」を第一人称で語る意味とその可能性も、個人的には考えてみたいと思います。

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