第2回 朝活(夜活)のまとめ
こんにちは,ゴトウです。
2015年4月4日,21:30〜23:00,これ社の第2回朝活もとい夜活が行われました。
参加者は,前回と同じく南浦さん,柴田さん,井上さん,後藤です。
今回のテーマは,
「授業を斬ってください」という言葉に込められたもの,受け止めるもの
です。
議論の背景
上記をテーマにしたわけは…。
私たちは,(授業)理論と実践の関係と,大学研究者と現場教師の関係について議論してきました。私たちは素朴に,社会や子ども,学術の動向→教育課題→課題に応える授業理論→授業実践という正規の(?)ルートがある,あるいはそれを目指しがちです。このルートの過程を振り返ってみると,「大学研究者に理論を見てもらう」とか「理論の応用としての実践」という関係や役割分担なようなものが自然と出来上がっている。
それが良いか悪いかは別に,なんでだろうということを,現場の教師である私は/大学教員である私はそのルートの中で何を求めているのか,何を提供しようとしているのか,そこに需要と供給の一致とズレはないか,を議論しているうちに…
このルートの中でしばしば交わされる言葉-「私の授業を斬ってください」-が気になってきたわけです。以下,前回の南浦さんのまとめの引用です。
議論の内容
「斬る」-ざっと考えただけで,意味がたくさんありそうです。そこで議論は,まずは自分たちの「斬る体験」あるいは「斬られ体験」をブレーンストーミングするところから始めました。
「斬る」の多義性
こんな斬る体験,斬られ体験が出てきました。
- 授業実践について,同僚や同じ研究会の内々のメンバーで意見を「言い合う」場面と,それを踏まえて学外や他の研究会など,公な場で発表する場面の2つが大きくはあるような気がする。前者は,「本番」に備えて議論を「くぐらす」とか,(同僚間で)総力を「結集する」といったニュアンスも。後者は,先日の話にも出てきた,自分(たち)では気づかない点を指摘してもらう,お墨付きをもらうなどといったニュアンスで「斬られる」。
- 大学の先生に「斬ってもらった」経験から…斬る目的には,授業の仮説を高めていく,より良いものにしていく,指導要領との関係が分かる,大学の研究者と現場教師とで理論と問題状況を共有する…などがありそう。
- 研究・実践を進めていく上では,自他の立場や位置づけ,あるいは自他の研究・実践上キーとなる概念や用語を,他の研究や概念・用語と「区別する」,「切り分ける」っていう意味で使っているかも。要は,交通整理。
でもメンバーに共有されていたと思われる点は,斬った,斬られた「あと」にあるものを重要視していることです。ただ斬られるだけでは痛いだけ。斬られることで,整理や位置づけ,改善の視点やお墨付き…が得られる。
仮にこういう「見返り」のある「斬る」が「よい」斬るだとしたら,それが成立する要件は何なのでしょう?結果がよければ,どんな「斬られ方」をしても良い?斬る目的や,斬ることによって得られる効果はさておき,斬るって何だ??どういう行為なの?
「斬る」「斬られる」に潜むもの
議論はより掘り下げたものに。ちょっと雑多になってしまいますが,以下に重要な論点を孕んでいそうな,メンバーのコメントを挙げます。
- 例えば,現場教師と大学教員との関係で言うと,同じ「斬る」でも,徒弟的な指導の関係の中でと,割と研究者の理論をある程度相対化して意見を言える関係の中でと,よりフラットで協働的な関係の中でと…などでは,どこがどう同じ?違う??
- でも,フラットで対等な関係の中で,「斬る」っていう言い方は馴染むの?例えば僕たちは今,コレシャで斬り合っているの?議論する=斬り合う?
- 斬る,斬られるにメリットがあるとはいえ,「痛み」が伴いそう。だから,場合によっては斬り返してやろう,みたいな。例えば,そんなに露骨ではないけど,「本論に対して〜という点からの指摘・批判もあろうが」などと予防線(という名の斬り返し)を張っておくとか。何か,構えたような感じになる。
- 確かに,自分(たち)では気づかなかった点を指摘されるのは良いこともあるが,極端に「難しい話」だと「はぁ,そうですか,スゴイ」と思考停止してしまう。斬られ損ですね(笑)。アイツ,斬られたのに気づいてないゾ!とかも。
ん?私たちの中で,「斬る」が揺らいできました。斬るは単に意味が多様なだけでなく,ネガティブなニュアンスもあり,斬る側,斬られる側によっては斬れない(=斬るが成立しない)ときもある。
では,上の方に挙げた「見返りのある斬る」を成立させるには?
斬る側,斬られる側の一方向的な関係ではなくて…例えば研究授業のようなときにAさんの指導案を斬るのだとしたら,斬り役のB,C,D,Eさん同士も斬り合うのはどうか。なんか健全!!(笑)
でも,発言力の大きい先生がズンと構えていたら?うーむ。。。
「斬る」「斬られる」を超えて
斬らなければ,良い理論・実践は生まれないのでしょうか。
今回,議論は広がるだけ広がって収束しませんでしたが,「斬る」という言葉は一見汎用性の高い言葉であるけれども,それでも言い表せられない関係や「斬る」(ことによる見返り)が成立しない状況もある。私たちはそんなことを再確認したような気がします。
最後に,おぼろげながら見えてきた論点を挙げておきたいと思います。
- 位置付ける,改善点を指摘する…ではなく,なぜ「斬る」なのか?痛みが伴いそうなイメージがつきまとう言葉を幅広く使うのでしょうか?
- 斬るというと,誰が誰をということを思いがちだが,結局,(一方向的に)理論で実践をっていう話なのかな??逆はない??
- 斬る,斬られるの関係は,社会系教科に固有の,もしくは特徴的な文化(?)なのか?確かに,社会科には◯◯主義社会科,社会◯◯科,◯◯学習など,教科の本質や目的に関する議論が盛んで,それらの主義主張から樹形図的に授業理論も派生してきている形。理論で実践をという形ができやすい??
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